· 

第13回 挫折と成長の先にあったもの

こんにちは。

今回引退ブログを担当させていただく法学部政治学科 4年 孫野都葵です。

 

大学サッカー4年間を通して私がどのようにサッカーと向き合ってきたのか、振り返りを本音で綴りました。

長く拙い文章ですが、読んでいただけると幸いです。

 

大学サッカーを続けようと思ったきっかけは、確実に高校サッカー選手権大会福井県大会決勝での敗北だ。その試合ピッチに立っていたにも関わらず、何の仕事もできなかった。情けなく、やるせない思いから、その後あの試合映像を1回もみることはなかった。こうして幕を閉じた高校サッカーから大学に入り、思いを払拭できる1つのチャンスを得た。大東文化大学サッカー部の校内セレクション募集である。コロナが蔓延していた最初の時期ということもあって、毎年100人近くのセレクション希望者がいる中、その年は8人の応募で、合格したのは5人だった。Zoomで面談をしただけで、合格でき、プレーを見ることなくチームに迎え入れてくれた暢二さんには感謝しかなかった。その面談で暢二さんと約束した、「4年間絶対に続けること」しっかりと守り、このブログをかけていることを嬉しく思う。

ここから、私の大学サッカーが始まった。

 

1年

最初の印象は、同学年に浦和レッズ松本山雅、青森山田、成立、昌平、がいる。福井県はJもなければ全国強豪校もほとんどない。そんな世界から、全国強豪校から来た面々を見て、やばいと思ったことは今でも覚えている細田はどこかわからなかったよ神田君。

そんなこんなで始まってすぐ、試練が訪れた。やったことがなかった右サイドバックへのコンバートである。右サイドハーフしかやってこなかった私が、そのポジションをこなせるわけもなく、1年目は試行錯誤しながらいつの間にか終わっていた。

 

2年

2年時には、少しずつサイドバックにも慣れてきてこれからというときに、腿裏の肉離れを起こしてしまった。正直、筋肉系の怪我をしたことがなかったためなめていた。すぐ完治して、プレーヤ―に復帰できると思っていた。1回目を中途半端に治して復帰したため、すぐ2回目の再発をしてじっくり治したつもりだったが、3回目の再発まで長引いてしまった。この期間合計7カ月。大怪我でもしたのかというくらい時間がかかってしまった。周りの人からまた?と聞かれることがあったが、自分が一番悔しいと思っていたし、もう治らないのではないかと考え辞めようか本気で考えたこともあった。これを読んでいる人たちには、本当に気を付けてほしい。軽いからといって怪我と向き合わないとこうなるといういい例になったと思う。こうして、2年生のシーズンを棒に振った。

 

3年生

ここで、大学サッカー人生の転機が訪れる。コロナか怪我かで、トップチームの右サイドバックの枠が空き、練習試合に呼んでもらえた。最初で最後のチャンスだと思い、死に物狂いで頑張った。そこから、トップチームに定着し、リーグ戦に出場する機会が増え、スタメンに定着した。この頃からサイドバックとサイドハーフを兼任してやるようにもなり、ユーティリティ性も増したと思う。コンスタントに試合に出続けた結果、チームは2部優勝を成し遂げることができた。「優勝」というものにたどり着けたのは高校以来だったし、こんなシーズンを通して勝利が多いシーズンは無かったので、素直に嬉しかったコンバートから始まった大学サッカーで何もわからない状態から優勝チームのサイドバックまで来られたのは自分の自信にもなった今思えば、ここが私の大学サッカー人生最高地点だったのかもしれない。

 

4年

ラストシーズンが始まったが、私は、トップチームにはいなかった。オフ期間中の怪我と就活で休む日が少しずつ多くなったからだ。気付けばB2のたかさんチームにいた。コンディションがなかなか上がらず、トップチームに上がることができず苦しんでいるうちにリーグ戦の半分が終わった。去年試合にさせてもらっていた選手がトップチームに絡めていなかったのは本当に申し訳ないと感じていた。だからこそここから気合を入れ直し、何とかトップチームに食い込むことができた。ベンチに入り試合に出られることが増えたが、ここが限界で、スタメンとまでは行かなかった。しかし、自然と後悔はない。自分としてはやり切ったし、関東昇格戦にも少しではあるが出場することができたからだ。

 

こうして振り返ってみると苦しいことの方が思い出に残っているのだと感じる。だからこそ大学サッカーをやった意味があった高校までベンチに座ったことがなかった選手に挫折と成長本当の意味を与えてくれたのだから

 

最後に

 

家族へ

幼稚園から大学4年生まで18年間何不自由なくサッカーができる環境を提供してくれて本当にありがとう。大学でサッカーをしようか迷っていたとき、背中を押してくれたから今こうして感謝の気持ちをブログを通して伝えられています。高校の時、朝4時台からお弁当を作ってくれたお母さん。うまくいかないとき練習に付き合ってくれたお父さん。文句も言わず、試合を見に来てくれていた妹。本当に感謝しかありません。今後地元に戻り、社会人として少しでも今まで受けた恩返しをできればと思うので今後もよろしくお願いします。

 

暢二さん

冒頭にも書きましたが、プレーを見ることなくチームに迎え入れてくれた暢二さんには本当に感謝しています。ありがとうございました。サイドバックでプレーすることになったことも、怪我の時相談に乗ってくれたことも、暢二さんがいたから乗り越えられ、更に成長できたと思っています。4年間本当にお世話になりました。

 

これで引退ブログを終わりにします。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

孫野都葵

コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    48パパ (火曜日, 30 1月 2024 22:10)

    お疲れ様でした。
    ワンチャンスをものにしてAチーム入り。日頃の努力と準備の賜物ですね。それは偶然ではなく必然なんですよね。
    ポリバレント能力を、社会人でも発揮できたら、必ず良い未来が待っていると思います。頑張って!