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第7回 相馬海音「僕とサッカーの物語」

🎅Merry Christmas🎅 

みなさん、楽しい夜をお過ごしでしょうか。私はもちろん楽しい夜を過ごしています。 

 

今回の大東文化大学引退ブログを担当する相馬海音です。今回はサッカーの一区切りのブログであるので、長年付き合ってきたサッカーとの惚気話を永遠と書き連ねるので、長く拙い文章にはなると思いますが、時間のある時にでもぜひ。 

 

私のサッカー人生は、兄がきっかけで幼稚園年中の頃から始まった。そこからなんだかんだ大学4年まで続けたので、17.8年ほどになる。自分は今22歳なので、人生の大半をサッカーと過ごしてると言っても過言ではない。記憶というのは、感情と結びついてより強く鮮明に残るものだ。そんな私の記憶はサッカーで埋め尽くされている。喜怒哀楽、その全てをサッカーが支配している。それくらいに自分とサッカーとの繋がりは強く、濃いものである。 

 

小学校低学年くらいまでの記憶などほとんどないが、楽しくやっていたんだろうと思う。しかし、より強く残っているのは後悔だ。なぜ後悔なのか、それはゴールデンエイジとも呼ばれる1番伸びる時期にサッカーから遠ざかっていたからである。その背景としては走りがきつかったこともあるが、1番の理由としては怒られるのが嫌だったからである。理由としては私の兄が近くでビシバシと指導されている姿を見ていたからだ。ビシバシというのはもちろん物理的なものでもある。 

そんな姿を見ていればやりたくなくなるのも自然な話であるが、そこから私と兄の差は明らかに開いていった。放課後もいつもサッカーをしていた兄と、家にこもって友達とゲームをしていた自分では当たり前のことである。ただ、自分はそこから逃げ出してしまったことを今でも後悔している。 

後悔や恐怖が強く残っているとはいったものの、楽しい思い出も多々あった。それが中学でもサッカーを続けた理由なんだろうと思う。 

 

ちなみに小学生の頃は ついさっきまで笑顔で話していた父が、車に乗った途端無表情になり、そんな顔とミラー越しで目が合う瞬間が1番嫌いでした。 

 

中学では、同級生、先輩、後輩ともにみんないい人で3年間楽しくサッカーをすることができた。顧問の先生は少し強烈ではあったが、、 先生はオンオフがはっきりしていて、自分が教員免許を取ろうと思ったきっかけになった人だ。普段話している雰囲気からでは想像つかないくらい鬼で鬼で鬼だった。あれ以来、いや今後の人生全て含めても斜め横断で怒られる人を見ることはないだろう。 

 

当時は選手権など夢のまた夢、スタジアムでやることすら叶わないだろうと思っていた。そのため高校でもサッカーを続ける意思はあったが、そこまで優先順位の高いものではなかった。ではなぜ私が浦和南高校を選んだのだろうと思ったそこのあなた、あの高校オーストラリア行けるんですよ。公立高校の修学旅行で。そりゃ少し無理してでも行くしかないでしょう。そんなこんなで南高に入学することに決めたのだ。ここで自分のサッカーは、楽しいだけのサッカーから勝ちにこだわるサッカーへと変化していった。 

 

そこからは怒涛の3年間だった。1.2年の頃はスタンドで、県2位の結果と初戦敗退という天と地両方の経験をした。この経験が自分たちの結果に繋がったのだと思う。 

人工芝になり最高な環境を整えてくれたのはとてもありがたかったが、走りのタイムに入れなかったら芝に立ち入ることを許されなかったり、試合に負けたら土のグラウンドでランパスをやったりと、大変なことも多かった。なかでも思い出に残っているのは選手2人だけ人工芝でランパスをやり、残りの選手は土のグラウンドからも追い出されコンクリートでヘディング練習をしていたことだ。あんな不思議な光景は南高ならではのものだろう。他にもマスクをつけながら走ったり、インポッシブルという誰が入れるんだよってくらいのタイムで走ったりと、走りの記憶も盛りだくさんだ。高校ではここに書ききれないくらい思い出がある。喜怒哀楽のほとんどを占めているのも高校の3年間だろう。 

 

1番嬉しかったのは全国大会に出場できたこと。怒ることはあまりなかったが監督に憎しみを感じたのは高校くらいで、1番哀しいのは選手権で負けた時、1番楽しいのは意味のわからない練習を馬鹿みたいにみんなで声を出して乗り越えた時。様々な感情を高校サッカーは与えてくれた。 

 

今でも選手権でのミスはいじられるが、大抵は笑って過ごしている。しかし内心はとても悔しいし、みんなへの申し訳ない気持ちでいっぱいである。あのプレーさえなければと何回後悔したことか。 

そんな悔しい思いで高校サッカーを終えたため、大学でもやりたいという気持ちが芽生えていた。もともとは高校で終わるつもりだったが、部活と勉強の両立ができなかったため、推薦で大学に行きサッカーを続けるという選択をとることにした。 

 

大学のサッカー部はBチームの雰囲気が最悪なものだった。真面目な人が浮いてしまう空気感で練習は緩いくせに、試合では文句を言うような感じだった。しかし最初は最悪だと感じていた雰囲気もしばらくすれば慣れてきてしまうもので、気づけば自分も真面目な人を嘲笑うようになってしまっていた。そんな自分が変わるきっかけとなったのは、同期の蒼太と勇介の影響がとても強い。蒼太は高校時代からスーパープレイヤーで、同年代の埼玉県内サッカー部では知らない人はいないくらいだ。そんな彼が海音とプレーしたいから頑張ってと言ってくれたら頑張るしかない。なんせこの部活に入って1番楽しみだったのは彼と一緒にプレーすることだったのだから。そんなこんなで腐りかけていた私を彼は無自覚ではあるだろうが救ってくれた。勇介はとても真面目なやつで、どこか自分と近いような雰囲気を感じでいた。そのため彼も途中で腐るだろうと内心思っていたのだが、彼は強かった。決して腐らず、何とかチームを変えたいととしていた姿を見て心を打たれた。それがあったのが1年の後半のことで、そこから私は心を入れ替えサッカーと真摯に向き合いやっていこうと決意をした。この2人には本当に感謝している。 

 

その後はコロナやら怪我やらで思うようにサッカーができない日も続き、3年の頃には降格を経験、最後の年に2部で戦うということになってしまうなど様々なことが起こったが、結果的には2部優勝で終わることができたので一安心。さらに引退試合の劇的勝利は、選手権出場の時と同じくらい嬉しかった。 

 

同期や先輩がどんどん部活からいなくなっていくなか、少ない人数でここまでよくやってこれたと思うし、私はみんなとの時間がとても好きだった。グラウンドでの時間、部室での時間、男気じゃんけんの時間、どれも今後の人生ではもう味分けないことばかりで思い返すと寂しい気持ちになってしまう。本当は一人一人にメッセージを送りたいくらいだが流石にやめておきます。みんなにはめちゃくちゃ感謝してますとだけ書いておきます。 

 

最後に 

今までのサッカー人生で関わってくれた人たちへ 

今の私がいるのはあなたたちのおかげです。小中高大どの年代においても私は最高の仲間に出会えました。あなたたちと関われたことは人生の財産の一つです。辛い時に声をかけてくれて、楽しい時に一緒に笑ってくれて、悔しさに溢れてる時は黙って一緒にいてくれて、本当にありがとう。 

 

両親へ 

 ここまで長い期間支えてくれて本当にありがとう。言葉では表せないほどの感謝があります。部活では部費、交通費、合宿費、用具代その他諸々たくさんのお金も時間もかかってきました。これから何年かかるか分からないけれど、必ず恩返ししていきます。2人と祖母と兄らの支えがあったおかげでここまでやってこれました。本当に本当にありがとう。 

 

サッカーを通じて色々な人と出会うことができ、そのどれもが素晴らしい出会いでした。私と出会ってくれてありがとう。これからもよろしく。

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コメント: 1
  • #1

    けいぞう (火曜日, 27 12月 2022 17:43)

    ブラボー❗